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谷村 勇
公開日:2015/03/08 閲覧数:15630

谷村 勇タニムラ イサム

エリア:大阪府

自己紹介 業務内容 求める人物 プロフィール 著書

自己紹介

       

     《中小企業は設立から5年で倒産する確立90%超!》(国税庁調査)

    私の起業は22才~71才(退職)迄次々と新しい発想に挑戦し不思議な
   足跡の結果を残す事ができました。これもその時々の情況の中で出来た
   素晴らしい人との出逢いと人脈の宝物を与えて頂いた方々に深く感謝申 
   し上げます。
                    
 【私は、異業種交流会に8年余りお礼奉公として参加させていただきました】    

それは「何故?」と思われるかも知れませんが、私は53才で大阪から東京に単身赴任で高田馬場に来て、ホワイトテレホンカードの印刷技術を国内第一人者として開発し、上京4年後には社員25名で年商20億円の企業に成長させて頂くことができました。その傍ら、私の向学心の意欲は衰える事無く、上京1年後、54才より早稲田大学大学院の夜間部に入学し57才で3年間の修士課程を修了いたしました。その間多くの皆さん方に大変お世話になりました。そのご恩に感謝の気持ちをもって、今現在も東京、大阪を行き来して日本の未来を切り拓く青年の皆さん方と共にフレンドリンク異業種交流会に参加しては色々な悩みや、時代の先取り等々、あらゆるご相談に応じてまいりました。これが私に出来る、ご恩返しのおお礼奉公としての、ささやかな気持ちです。何時の時代でも、人間は人々から信頼と尊敬される人間である事が一番大切な事ですね。それには真実に基づいた「結果」が全てです。ぞうか私の15才~71才(退職)までの足跡の記録をご覧頂き、ご参考になれば大変幸せです。

・・・ある日、東京からに大阪に帰りましたら机の上に1通のお手紙がありました。
その内容を皆さん方にもご報告させていただきます。(お名前は伏せさせていただきます)

谷村 勇様
「裸一貫で挑戦した年商20億円の書籍を読ませて頂きました。谷村さんのあくなき挑戦の奇跡を鑑みるに至り、自分自身を鼓舞する事ができ、まだまだ自分はやれる、前進あるのみという気持ちになりました。谷村さんに影響を与えた吉田松陰は私も尊敬する偉人であり、勉強熱心・誠実を貫いた事を常に頭の片隅において行動の規範としています。時代を先取り、週休2日制を導入したり、人を大切にする姿勢に共感します。長者番付に掲載されたにもかかわらず、おごらず、勝ち負けという言葉を超越した気持ちを持ち80才を超えても常に元気で社会に貢献する姿は素晴らしいと感嘆します。何事に対しても人ありきの姿勢を貫いてきたことで、よき人間関係を築かれ、ポジティブシンキングで精力的に活動されていることは老若男女問わず元気をもらえ、日本の社会を明るくしていく礎となります。私も谷村さんの出逢いに感謝し、まだまだやれるという気持ちが以前にまして高まっています。
このご縁を大切にして今後共若輩者にご指導していただききたいと思います。短く、つたない感想文ですが、偽りのない気持ちを書かせていただきました。最後までお読み頂き有難うございます。

私が生かされてから今日までの83才の 人生経験 を 一つの教訓としてご先祖様、ご両親様に対する感謝の気持ちを御恩返しする事が、私の最高の幸せと考えております。<特にお礼奉公の思い出旅>は私にとってはかけがえのない、素晴しい 人生の思い出になりました。・・・深謝。有難うございます。

私は8人兄弟の末子として生まれました。母は私が小学校4年生の時に病気の為亡くなりました。今でも当時の事が、私の脳裏に深く焼き付いて忘れる事はありません。しかし人間の運命は如何する事も出来ません。逆に不幸になって、自分の生き方を良い方向に努力すれば、何とかなるのではないかと、常日頃忘れた事がありませんでした。「何くその精神力、人に負けてたまるものか、との強い、ど根性」と行動力によって現在83才になりましたが、お礼奉公の思いで旅として、毎月大阪から東京に1週間の異業種交流会に参加させて頂きました。お陰様で、最近益々元気を頂き、8年間続ける事が出来ました。それはなんで・・・と思われ方には私の著書「裸一貫で挑戦した年商20億円」三省堂書店刊行をご覧ください。またインターネットで、谷村勇 Facebook・早稲田大学ホームfacebookのレビューを検索してみてください。又、全国の国、公、私立大学名の後にも同様に谷村勇と検索下されば写真も御覧頂けます

此れが私の出来る、御先祖、御両親に対して末子の役目として御恩返しの最大のプレゼントにさせて頂きたいと思っております。この度、フレンドリンク異業種交流会のご縁によりまして平成27年より東京の某IT企業様より温かいご支援を頂きまして経営戦略担当役員に迎えられる事になりました。今までの仕事とは全く違った業界ですが、私も今日までの長い企業経営の実績に基づいた経験を生かして、再活動を始める事になりました。 今後は日本の未来を見据えた新しい情報、人工知能、セマンティックWeb研究に、早稲田大学の研究生と共に英知を結集した集団として、全員一丸となって、2020年代での上場も視野に入れ、世界戦略の構築に目を向けた方向性で、日本を代表するWeb総合コンサルティング企業を目指します。今後共何卒宜しくお願い申し上げます

<裸一貫で挑戦した年商20億円の著書内容>
はじめに・・・本書をひも解く前に書名を改めてご覧頂きたい。「裸一貫で挑戦した年商20億円」 としたのは、まぎれもなく私の人生そのものの証だからである。そんな事、出来る訳がないと思われる方も、ひょっとしたら出来るかもと思われる方も是非お読みいただいて参考にしていただければ幸いである。活字離れといわれる昨今だが、もとい書物というものは、その文中の一行でも1ページでも読者に感動を与えてくれたなら、その価値を認めざるを得ないのではなかろうか。さて、水戸黄門の歌にある 「人生楽ありゃ苦もあるさ」ではないが、人の生い立ち、なんてものは千差万別あるのだし、運・不運などと言っても始まらない。何故なら、生れも育ちも自分では決められないのだから。しかしその子が後年になって「あなたの子供でよかった」と思えるかどうかは、基本的に親の愛情ひとつに、かかっているのも事実ではある。結局、自立できる人は義務教育後にしっかりと志や目標を持って生きようとする前向きな人間ではないだろうか。かのクラーク先生もおっしゃった 「少年よ、大志を抱け」 の精神をもっているか否かで、その人の生き方を大きく左右するものと言える。

・・・人との出会い、人脈の宝物が・・・
「裸一貫で挑戦した年商20億円」を25名の社員が成功させてくれた物語。

15才の春、中学を卒業したての著者は大阪の小さな活版印刷所に就職した。父の教えである「人間は人の三人前働きなさい」と言う言葉を胸に、昼は印刷所で夜は定時制高校、そして帰宅後は名刺印刷のアルバイトを夜中の2時~3時まで7年間続けた。22才で 「起業家の道に」 第一歩を踏み込む。その傍ら奈良県立大学に学びその甲斐あり、25才で念願の小さな一軒家を手に入れ、26才で結婚する。そしてあるきっかけから、定時制高校時代の学友のご縁にて彼の勤務する会社の印刷物を受注する事になり月間約50万~70万円程の売り上げになった。ところが、やっと軌道に乗りかけていた矢先の事であった。忘れもしない、昭和40年3月に200万円の不渡り手形を食らってしまった。それが、お得意さんの中で一番の会社であっただけに、始末も悪い。ショックも損失も大きい。印刷関係に限らないが手形決済のその恐ろしさというか、危機感を嫌というほど味わった。しかし、この教訓が今に生きている。しばらくしたころ、200万円の手形の内、60万円が返ってくる事になった。私はすかさず考えた。「この60万円を元手に残りの140万円を取り戻して見せる」・・・と、早速、60万円を頭金にして、当時220万円だった建売住宅を買うことにした。その220万円で買った家が後に、ひょんなことから350万円で売れる事になるのだが、そのいきさつは、おばあちゃん(女房の母の事をそう呼んでいる)からの相談にさかのぼる。昭和44年のことで、不渡りにあってから4年後の事であった。おばあちゃんの息子(私にとっては義弟)が結婚することになったので、私に、「イサムさん、息子に家を持たせなきゃならんから、どっか豊中の方でいい家見つけてやって」と頼まれ、私はすかさず、「それはめでたいな、そんじゃ見つけてこよう」と言い、2日後には周旋屋(不動産屋)に頼んで、駅から5分ほどの閑静な住宅地の建売りを見つけてきた。10軒ほど見たが、瞬間的にいい家があったので、これ、いくら?と聞いたところ、530万円ですと言う。私はい良い所やし面白いなあと思いつつ、早速おばあちゃんに言ったところ、早かったね、よしよし見に行くわーとおばあちゃんが言うので、建売住宅の営業マンに内金として5000円を渡して押さえてきた。そして、おばあちゃんと一緒に現場を見て私は言った。「あの家、どうや」そしたらおばあちゃんは、「イサムさん、こんないい家、もったいないなー」一瞬考えていたところ、急におばあちゃんは、 「イサムさん、あんたが持っとるあの家を売ったってや」と言う。義母とはいえ身内同士の前代未聞のやりとりが始まろうとしている。「売ってくれるか」「 なんぼで買うてくれる」私は実際に60万円を頭金にして買ったこと。まだ残りが150万円あることなどをおばあちゃんに話して、ほんなら350万円でどうや、と言ったところ、これが成立する事になった。ところがおばあちゃんは別の物件(もっと広いところ)を見つけてきて、この家700万円と言われたけど、「買うたらどうや!」またまた私の頭が回転し始めた。そしてその工務店に行って聞いてみる事にした。あくる日、その工務店での交渉した時が私の大転機につながるのである。もちろん700万円という大金はないのだから、私は工務店の社長にこう切り出した。「おっちゃん、少しまけてくれへんか 」「いや、まけられへん」「 ほならやめとくわー」そんなやり取りから一夜あけて、ローンを組むにしても、どのようにしたら買えるのか思案していた。ところが、池田銀行だったら借入れができるのではないかということになった。結局、おばあちゃんが、会社の重役だった事もあり、保障してもらうことで、利息は厳しかったが、10年ローンを組むことになったのである。とうとう契約を取り交わすことになって、その工務店に行ったところ、その社長の机の上にドッサリ印刷物が積まれてあったのが目についた。それは建売住宅のチラシであった。そこで、「実は私の会社は印刷屋なのでやらせてもらえないでしょうか」と言ったところ快く発注してくれたのである。今回の物件で誠心誠意ぶつかったことがよい結果をもたらしたともいえるが、私にはおばあちゃんが女神に思えたものである。いよいよチラシの出番となる。枚方で500戸 高槻で700戸の建売販売とか、毎週折り込みチラシの数は半端ではなかった。それまで一台の印刷機で賄ってきたが、仕事量に合わせて次々に印刷機を7台まで増設することになり営業の幅が広がった。朝9時に受注しても、その日の6時には出来上がった。大阪にある宅建会社その他、約2万社にダイレクトメールを送ると、またたく間に150社ものお得意さまが増えたのである。デパート、電鉄、不動産、配送、大学、等々のお得意様が生まれた。そして有るきっかけから「ホワイトテレフォンカード」 の印刷技術を、国内第一人者として、最初に開発し、昭和47年7月より印刷業界の トップを切って完全週休2日制を実施。業界の「パイオニア的存在」 として53才の正月印刷サンプルだけを手に裸一貫で単身上京、4年後には社員25名で年商20億円の企業に成長させ、その間にも向学心の意欲は衰えることなく、仕事との両立を乗り越えての1日8時間の猛勉強に挑戦し、念願かなって54才で早稲田大学システム科学研究所(現、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科)を突破、入学3年間の修士課程を終了した。昭和48年度より創業以来初めて個人・法人の高額所得番付のランキングの仲間入りを果たす事が出来ました。昭和51年度より社員研修旅行も海外へ、第1回ハワイホノルル・第2回香港マカオ・第3回韓国ソウル・第4回オーストラリア・第5回ハワイマウイ島(全て1人お小遣い10万円付き)。昭和52年度社員のボーナスもお陰様で34才平均で年間175万円を支給させて頂く事が出来たのも社員の皆さんのお陰だと思っております。本書は、著者の成功の秘訣と隠された苦難と苦学を共にして生きて来た、現代のビジネスマンに送る、時代を超えたビジネスヒントに満ちた作品である。また大阪早稲田倶楽部の校友会会員の皆さん方とも日々仲良く活動させて頂いております。大阪早稲田倶楽部谷村勇で検索して下されば2013大阪早稲田倶楽部(PDF)で検索20Pに会員の皆さん方にご紹介をして頂いております。

<講演依頼先企業>
NTT・リクルート・ダスキン・大阪商工会議所・大阪市中小企業指導センター・大阪市経済局・ミスタードーナツ全国店長教育研修会・日本HR協会&関西経営者集会京都国際会館・日本HR協会富山研究会・関西大学教授とのシンポジウム・金沢商工会議所・尼崎東ロータリ―クラブ・東京都倫理法人会豊島支部・日本HR協会東京経営者集会明治記念館・日本生命奈良支社・因幡産機ASK経営懇談会・大阪府印刷工業組合・大阪府名刺印刷組合・大阪印刷インキ株式会社。その他多数。・・・各講演会の後日に頂いた皆さんからの激励や感謝状に感動を呼び起こさせてくれると共に、いかに各人が努力しようとしているかを読み取れる事と思う。

<私の講演概要>
感想文からの教え・・・ここに私が今まで講演してきた概要を顧みる。講演のテーマとしては、私が日本一の印刷所を目指して日々活動をしている内容が主となっている。なかでも力説したいのは、(1)働かない営業マンはいらない。(2)商品はなるべく安く、正しく、スピーディーに。(3)世の為、人の為に尽くして働く。(4)人のやらないことをやる。(創意と工夫)。(4)親からの 「無形の財産」に感謝。などであるが、そのことは講演会の後日に頂いた激励や感謝状に表れているので掲載する事にした。順不同で名前も伏すが、感動を呼びおこさせてくれるとともに、いかに各人が努力しようとしているかを読み取れる事と思う。文中に、私の所感を参考までに述べさせていただいた(当時の言葉が足らない部分を補うために)。
感想文【その1】1.今まで自らやって来た仕事、その実績に基づいた自信、人に語る時の説得力の高さ、人に影響を与え、人を動かしていくためには自らの断固たる信念を持たねばならないとあらためて感じた。2.現在市況の厳しい中、谷村社長が常に自分を追い込む状態におきつつ明確な目標に向かって突き進むことを教えられた。3.ハイモラル、ハイテンションを保って、さらに売り上げを伸ばしてゆく姿勢は、私自身すぐにでも営業活動に活かすべきと考えます。4.とても元気な社長に会えて、私のほうが年寄りに感じてしまいました。5.日々、人に、時間に流されてしまいがちな私にとって、社長のこだわりと強さは目を覚まされる思いがしました。6.人より先をいつも頭に置いて頑張れるのは、社員と家族のことを真剣に考えられている やさしさ からなのでしょうか。7.いつも私は「なんとかなるさ」、「まーいいや」、「しょうがない」で片付けてしまいがちでしたが、これからは 「なんとかしよう」、「これでいいのか?」、「もっとほかに何か」 と自問自答しながら前向きに仕事をしていこうと思います。8.あの社長は、くじけたことはないのでしょうか?またあったとしてもその時どうやって立ち直ったのでしょうか?《筆者》私にだって、くじけそうになった事、またくじけた事は何度もありました。さすがに社員や家族のことを思ったら不穏なことを考える余地もありませんでしたが。それより何よりもみんなを幸せにすることばっかり考えていましたので、これが私のいきがいなのです。きれいごとではないのです。生命というものは、自然と一体なのです。お迎えがくるまで全うしましょう。健全であれば立ち直れます。9.頭では判っていても足がすくんで一歩も前へ出られないことがあります。その悲壮感を払拭された社長の強さを身につけたいのですが?それはっきり言ってご自分の甘えからきているものでしょう。人間誰しも弱いものです。守るべきものがあれば心強いのではないでしょうか。ご自分の生活にも仕事にも自信がもてるというものです。10.「為せば成る 為さねばならぬ何事も------」の名言を残した上杉鷹山(私の出身校「米沢興譲館」の創立者で、校訓ともなっていました。)社長の生き方・強さとともに、この言葉をかみしめました。11.私の感じたポイントは、①「山川式戦術」の考え方と、②ピンチに立たされた時、人と異なる道を選び続けた事の二点でした。私の新人時代を思い出しました。このたび社長が鍛えてくれたのは、(1)自己の商売哲学を強くもつこと、(2)はっきり主張すること、(3)金銭感覚に敏感であること(4)人情に厚いこと、(5)大阪の商売人たれ、などでありました。12.仕事に取り組む姿勢を学んだ。人それぞれいろんな生き方があるけれども谷村さんの勇気と決意に「すごさ」を感じた。13.山川式にみる 反骨精神 のパワーに圧倒された。一人であれだけの年商をえられたのは、コテコテの大阪商人魂と人並みはずれた精神力があっての事だろうと思う。14.常に人と差別化させる、その努力をする、それをきちんと実践されている事に感動しました。私も即実行したい。15.高齢にもかかわらず、営業にこだわりをもってやられていることでエネルギーをもらいました。16.(1)チヤレンジ精神の旺盛さ、(2)強い信念、(3)独創に対するこだわり、を強く感じた。17.営業面におけるエピソードをもう少し聞きたかった。《筆者》本書の第一章からお読み頂ければ、営業時の場面がつかみとれると思う。18.やっぱりお客さまとのコミュニケーションが大事である事と、お客様の立場に立って有益なことが出来るかをあらためて知りました。もちろん奥に秘めた危機感を持ちながら。19.私の印象に残ったこと。(1)社長のきれいな瞳、(2)一見、家族をほったらかしにしてそうだけど、実はすごく大切にしてそう、(3)信じる者は救われる、(4)自分より目上の者がいない苦労とうらやましさ、(5)男の生き方(完全燃焼)。20.情に厚く、自分の信条をもつことが営業の基本と感じた。21.「言っとくけど、得意先回りは営業やない、単なる御用聞きや。新規開拓しなければ本物の営業とは言わんのや」でハッとさせられました。これは私の課題です、頑張ります。22.お客様の所で 高齢化社会の到来 について話をすることがありますが、みんなが、谷村さんのようにバイタリティーがあれば、そういう社会が来ても日本社会が下落することはないだろうなーと。もし、隠居される時がきたら何らかの形で日本経済を救って頂きたいと思う。《筆者》私も常日頃からそう思っています。私が日本社会を救うなど大それた考えはもち合わせていませんが、形はどうであれ社会の一員としての協力は惜しまないつもりです。23.大変な時に土地を買った。でも結果的に住宅関連の仕事が舞い込んで成功した。こんな旨い話を予想していたのでしょうか?(筆者)確かにそう思いたがるのは無理もありませんね、しかし現実はそう簡単に行くものではないのです、私は何時も好奇心をもって行動していますので、チョッとしたことでもヒントになりうるのだと思います。土壇場に立たされた時ほど、その力を発揮するよう心掛けています。みんながやりそうもない事に目を向けてみてください。24.これだと思った時の決断の早さが功を奏する事を勉強させられました。ただ新規営業の秘訣を具体的に教えて頂きたかった。《筆者》秘訣と言うほどの事ではないが、本書をひも解くとすこしは感じて頂ける事とおもう。例えば不況といわれる現代で、同業者と話をした時、出てくる言葉は異口同音に 「ほんまにあかんなー」とか「うちもあかんけど、おまはんとこは、どうや」位のものであろう。それから、同業他社と話をした時、「どうせ違う仕事やからわしゃ関係あらへん」で片付けてしまっているのではないだろうか。こんなことでは開拓どころではない。開拓とは、日常の仕事をソツなくこなしてから考えるものだから休養が必要なのです。アイデアというものは過多と言われる情報の中だけに見逃してしまうものもある筈です。運だけに頼っていてはダメです。ターゲット(あまり好きな言葉ではないが)を絞って行動しませんか。25.商品よりも、まずは自分を売って信頼を得る、得られる営業スタイルは大変勉強になりました。26.仕事に対する情報の目の付け所が早いことと、自分の考え、決めた事に信念をもち続ける強さを感じた。27.試行錯誤を繰り返す事も大事、新規事業の可能性を求めるのも大事、年令に関係なく実行あるのみを強く感じました。28.次にどんな事に挑戦しようと考えているのか、是非聞きたかつた。《筆者》 「朝令暮改」と言う言葉があります。これは朝出した命令をその日の夕方には変える意味ですが、私はこれを逆に捉えるようにしています。発想の転換、つまりその時々でチャレンジする事も変化するのです。ここで私が次に何に挑戦するのかは敢えて述べませんが、常にチャレンジする気構えがあることだけは言っておきましょう。自分も将来、独立して経営者になりたいと思っていますが、そのためには人脈を拡げ、情報感度を良くする事が大切だと痛感しました。しかし、既存の事業を投げうって、新規事業にかけた社長の度胸と信念に敬服しました。果たして自分が、同じ立場だったらそのように決断出来るかどうか・・・。ところで、関西におられるご家族とは、どうやってコミュニケーションを取られているのでしょう。《筆者》 単身赴任者ならどなたも同じように、時々電話で話もできますし、むしろケンカも出来なく愛着がますのでは?特に一月のニ日に東京へ出て来られたところに社長の行動力の速さを感じた。私も身に付けたいと思います。社長の好きな言葉をお聞きするのを忘れましたが。《筆者》 私の好きな言葉は「先手必勝」です。よく「攻撃は最大の防御なり」という言葉も使われますが、私は、創造力と工夫が勝負だと思っています。その心構えと実行力によって新たな人脈ができ、それが財産となるのです。31.私も自分らしさを出して戦いたい。別に社長のマネをするのではなく、社長の考えとか夢とかを聞きたい。《筆者》本書に私の考えや夢など網羅したつもりですが、いつでも私にご連絡ください。語りましょう。
感想文【その2】 1. ともすると自分の範囲から出ようとせず、権限がないからとか、どうせ取り上げてもらえないだろうとか、全て自分以外に擦り付けがちですが、その守勢の意志を強く叩かれたとみんなは自覚したようです。「親の折かん、こが聞かん」 の例え通り、社内の私共が言うよりも社外の、しかも実際に体験された社長のおっしゃる事が、皆の心を強くうったようです。元来私は一ヶ所に停まっていられないタイプで、一つのことを出来上がるまで熱中はしますが、やり遂げた後は誰かに任せ、次に探すという具合でした。「何か良い事ないか」と社内をいつも探して、今も一つ抱え込もうとしており、前例のないことをやらかそうとしています。相当抵抗があるものと予想されますが、社長のお話をうかがい、気持ちが奮い立つおもいです。2.私自身、とても反省させられましたし、情熱の炎が燃え上がったように思えます。今日まで、自分の生活、物の捉え方、考え方にどう一貫性を持たせようか悩んでいたところです。お話をお聞きして一歩進める事ができた感じがしました。3.谷村先生の第一印象は、正直言ってこれほど物事を深く考え、熱意や意欲を持ち創造される方とは知りませんでした。お話を聞くにつれて親しみを感じました。「人との出会い」「感謝の出来る事」は本当に大切だと思います。 金ではない無形の財産をもらった とはどういうことなのだろうと考えながら聞いていたのですが、「粉になってはたらけ」「真面目になって働け」などの考えが無形の財産である事を知らされ、私もこれからこの財産を持ちながら 有形の財産 にしたいと思います。また、あらゆる物事に対して常に前向きになれる人、自分自身の挑戦が出来る人、危機感を持ち自分を追い込むことが出来る人になれるよう努力いたします。とかく保守的な私にとって楽な道を選んでしまうのですが、現状に甘んじてはいけない事を痛切に感じました。人間生きている限り、いつも問題意識をもち、人を思いやる心とか、ありがたいと思う心を仕事や生活面で活かしていきたいと思います。お話をなさっている時の先生のお顔、あの生き生きとした目、姿、動作、どれをとっても 「感謝の心」 が滲み出ている気がしました。私は、故鈴木会長 (この項の末尾 脚注参照)を彷彿させるほどに感じました。4社長の言われる「常に危機感を持ち、自分に厳しく人にはやさしく」は、私の甘い生活に活を入れて下さいました。アイデア・知恵で勝負すること、即行動・実行する手法を学び、今日から私も生活改善に取り組もうと思います。5 自分なりにある程度の目標を定めて、やるべきことはやって来たつもりですが、その目標設定の段階で甘さがある事に気付かされました。なかなか自分を究極の状態にもって行くことは出来ない感がありましたが、最後まであきらめない精神力を身に付けたいと思います。私の部署は経理部ですが、谷村社長のようなファイトと行動力のある経理マンとして価値のある存在になるよう目標を設定します。勉強あるのみです。6.社内の勉強会や本などで勉強しているのですが、どうしてもマニュアル化されたアドバイスしか得られていませんでした。しかし、社長の行動力・決断力・根性に耳を傾け全身が震える思いでした。まさに社長は生き字引です。「実践してこそ人に言えるのだ」 の言葉を忘れずに何ごとも挑戦したいと思っています。7.お話の中で、「恵まれていたからこそ反骨精神が生まれ育てられた」 ということで、 リンゴの八等分割 「我が故郷そして脱皮」 に掲載) について説明されました。私の発想とは大違いで、そこにおける表裏一体の考え方を教えていただきました。恵まれているからこそ安定を求め、周りに目を向けるゆとりさえない私(幅の狭い人間)も、社長が心の支えとしている言葉「人は身を粉にして働け」を肝に銘じて、四分一歩・半歩と歩幅は狭い乍らでも着実に 人間の幅 を伸ばしてまいります。8.毎日のマンネリ化で、何か新しいことを始めるのも面倒だし、現状で何も問題がなければいいや、と思ってきました。ところが社長はあのお歳 (すみません) でもあらゆる時、所でアンテナを張り巡らして、自分の手でチャンスを掴み取られたではありませんか。簡単に真似できそうにはありませんが、私なりにチャレンジしようと思います。鈴木会長の言葉「おおいなるもの」に守られているのでしょうか。しかし、次々とチャンスをものにしていかれた闘志・根性は谷村式の資質であると確信いたします。(合掌)
感想文【その3】1.遠方まで来て頂き、谷村社長の熱意あふれるお話ぶりに職員一同感謝するとともに、多くを学ばせて頂きました。これからも前進有るのみと志を持ち、仕事にも人生にも励もうと皆で誓いあいました。 2.商売の世界の心にふれるお話の数々、感動でいっぱいです。 「人間は粉になって働け」 人の三倍働け、世の為人の為つくせ」 とか、また 「売れない人を何人おいてもダメ、ちょっとした発想・アイデアが大切、山川式経営哲学」 等々、たくさんの勇気をいただきました。今後とも人生の師としてのご指導を宜しくお願い申し上げます。3.私事でありますが、単身赴任をしており、健康と時間の浪費をしていることを大いに反省しました。自身を磨くため、新しい事にチャレンジしていくことを心新たにさせていただきました。4.NTTの前身、電電公社でさえ週休ニ日制の導入は、昭和56年(1981)でありました。それが御社では昭和47年(1972)ですから、画期的な事だと思います。そして自ら開発された印刷技術はその業界のパイオニアと言えるでしょう。「よい商売を、安く、スピーディーに納める」 「人がやらないことをやる、原点にもどる」社長の商売哲学はもとより「男」の琴線にふれた思いがします。5.裸一貫で身を興された真金の話には、迫力と勢いがあり、数々の人生の修羅場を潜りぬけて来た厳しさの現実を感じ取ることができました。セールスとは、経営とは、私も一番好きな言葉である 「人のやらないことをやれ---」 と身を絞り出すよう叫ばれたが、最後まで頭に焼きついてはなれませんでした。私はニ人の子供に形を変えた事あるごとに話をしていますが、「豊かな社会が子供達にどの様な影響を与えるのか」 は考えさせられる部分でありました。だいたいは親の背中を見て育つものなのでしょうが、その見本となる親として、社長の生き方がとても参考になりました。6.私が特に印象に残ったのは、・新しく開拓するのが営業マンである。・山川式単身赴任作戦で人と違うことを考えてみる。・両親からの 「無形の財産」 を大事にしよう。の三点であつた。時にお地蔵さんに手を合わす事も学びました。7.順風満帆な成功者の話とはまるで程遠い、波乱の人生哲学から学び取れる「ド根性=反骨精神」、「アイデア=発想の転換」「先見性=時代の先取り」がひしひしと感じられました。さまざまな試練をものともせず商売の好機につなげるバイタリティーに感動いたしました。少年時代に芽生えた「兄貴は兄貴、俺は俺」の反発心が今も宿り、あらゆる難敵にも立ち向かう心を持ち続けている社長を見習いたいと思います。家業の自転車屋とは異なる印刷業の道を歩まれただけではなく、当時の住宅ブームに乗り、住宅情報のチラシ印刷によって社業を拡大されました。その間「一生勉強」をモツトーに、ゼミ・研修会などにも積極的に参加。常に行動し、色々な人との出会いによってヒントも得ています。テレフォンカードとの出会いもそこに生まれたのでしょう。その後においても社長の独創性が随所にみられます。とにかく他に真似のできない、(1)スピーディー、(2)低料金、(3)アフターサービス、(4)美しい仕上がりに重点をおきながら一人営業をいかんなく発揮されています。東京に単身で乗り込み、次々に大手百貨店へ営業されたのも見事ですし、「商品を売る前にまず人間を売込め」を実戦された行動力とその意気込みに鬼気迫るものを感じました。私も今後仕事する上で「一味違った輝きをもつた管理者」となるよう自己研鑽に努めてまいりたい所存です。----上司が知りたい報告は、手柄話ではなく真実である----合掌---
その都度この様に感想文を頂いているが、むしろ講師を承って私自身、励ましと勇気をいただいた。皆さまに感謝申し上げたい。この感想文のように一人一人違っていいと思うし、それぞれが今後の人生に向かって生きられることを願っている。

業務内容

裸一貫で挑戦した年商20億円の著者。ホワイトテレカの印刷技術を国内第1人者として開発。昭和47年より業界のトップを切って完全週休2日制を実施。上京1年後54才より早稲田大学大学院修士課程に進学。

業務実績

「足跡は物語る」・・・
・15才の春、一人で 大阪へ職を探しに出て来て、小さな活版印刷所に就職する。
・18才で定時制高校に入学。これまでコツコツ貯めたお金で小型の名刺印刷機を買う。
夜 学から帰り名刺印刷のアルバイトを始める。

・22才で定時制高校卒業、奈良県立大学夜間部に入学。この年に活版印刷所を辞め、名刺
印刷所として起業家になる。

・24才 奈良県立大学を卒業。
・25才一戸建住宅購入。
・26才結婚。
・27才長女誕生。
・28才名刺印刷業を廃業し、活版印刷業に転換する。田中二丁目に一戸建住宅購入 。第二
工場を新築。社員寮兼工場とする。

・30才次女 誕生。
・31才第一の得意先倒産、200万円の不渡り手形を食らう。7月不渡りの200万円の内、くし
くも60万円が配当金として戻る。即日、そのお金を手付けに220万円の家を豊中で購入。
損害の140万円を取り戻す事を目的とした。

・33ー34才印刷業組合会長に推薦される。 この時、活版印刷からオフセツト印刷への切り
替えを組合員に説得するが、相手にされなかった。確かに活版 印刷の全盛期だった事も
あるが、もくもく一人、オフセット印刷の研究をし続ける。

・35才4年前に220万円で購入した家が、350万円で売れる。これに銀行借り入れ350万円を
加えて、700万円の家を買う。その時、初めて住宅のチラシとの出会いが始まる。活版印
刷を廃業し、同時にオフセット印刷に転換する。住宅関連企業の折込チラシ印刷の一本化
に絞り込む。

・37才一人当リ生産性日本一を目指し、本格的な経営の勉強を開始する。
・38才田中に本社ビル完成。スエーデン製の高速印刷機を購入。この年から国内印刷業界の
トップを切って完全週休二日制を実施する。

・39才営業用の自動車を廃しえ、電車営業に切り替える。月間12万円の節約になる。創業以来、
個人最初の高額所得番付に登録される。6月、弁天町に土 地 35坪を買い取り平屋建倉庫とし 
て建築する。

・41才弁天町の平屋建倉庫を2階建 に 改築し工場完成。西ドイツ製ミラー両面同時高速印刷、
機を購入。この年に建売業者へダイレクトメールで我社 の印刷業務を広く宣伝する。 8月
お取引先各社へ半額セールを1ケ月半実施。大反響を呼ぶ。

・42才チラシの規格サイズから縦・横各5ミリ小さくすることを考案し、独自の谷村JIS規格
の用紙を別注。年間約1000万円の節約となる。第一回社員研修旅行ハワイホノルル。

・44才弁天町の隣接地90坪を買収し、内40坪の拡張工事が完了。投資額8000万円。新規お得
意先開拓を目標に、2回目のダイレク・メールを実施。

・45才弁天町工場に、西ドイツ製ローランド 二色機増設。
・46才弁天町工場に、三菱四六半裁ニ色機増設。
・47才弁天町工場に、デザイン設備、撮影用設備一式増設。
・49才第二回社員研修旅行香港・マカオ。
・51才弁天町工場に、小森四六半裁四色機増設。名刺付きメモ帳の新商品を大手証券、損保、
生保等に対し全国展開にて発売する。

・52才テレカの印刷に関連する機械設備を増設。
・53才テレカの営業開拓の為、単身で元日より、東京高田馬場に営業所開設。
・54才早稲田大学システム科学研究所に入学(現在、早稲田大学大学院アジア太平洋 研究科)
3年の修士課程を修了。

・55才第三回社員研修旅行韓国・ソウル。
・56才法人最初の高額所得番付に登録。台北へ女 房と個人旅行。
・57才伊豆高原に300坪の保養所開設。弁天町に四階建て本社ビル完成。小森菊半裁四色機
増設。法人高額所得番付に登録される。早稲田大学システム科学研究所修了。第四回社員研修旅行オーストラリア。

・60才カナダへ女房と個人旅行。
・61才第五回社員研修旅行ハワイ、マウイ島
・63才個人高額 納税者番付に登録。
・64才ブラジルテレカの開拓を目指し、東京からサンパウロに渡る。
・71才会社を退職し現在に至る。

求める人物

・物事を絶えずポジティブに考えられる・何事にも積極的に取り組みが出来る・常に新しい発想とアイデアを考えている・自分の事より他人を思いやれる精神・信頼関係の出来る絆を大切にする事です。・・・・私の身近な30歳男性(大手商社)を退職し独立志向が非常に強く、いつかは起業と考えておりました。その時期に父の病気により仕事の手助けに入り事業継承の形で起業。将来は会社を大きくして40歳までに、年商1億円を目標にした事業計画に向かって、毎日明るく楽しく頑張て活動しています 私はこの様な若い青年のパーワーがとてもたくましく、生きて行く魅力に感動を覚えています。ぞうかこれから起業を始める方も、また起業で活躍されている方も、是非日本の未来に向って、何か新しい夢を持って発想力・行動力で勝負に挑戦して下さい。微力ながら私も皆さん方の仲間として応援させて頂ければ幸です。

プロフィール

業種
その他
電話番号
090-3090-4451
FAX番号
非公開
Webサイト
まだ未入力です
生年月日
非公開
出身地
奈良県
特技
物事を絶えず(365日)斬新な発想で見つめている。:何か新しい挑戦に燃えて実行出来る夢を持っことが人生の生きがいと思っている。:他人と同じ発想をするのではなく、独自性の考えで日常生活を送る癖をつける。:元気な青年の皆さん方のパワーを、毎月1週間東京の旅の合間に、交流会に参加出来ます事は、私にとっては貴重な宝物です。(認知症予防に最適な効果になっております。) 今後ともなにとぞ宜しくご指導を賜ります様お願い申し上げます。
座右の銘
(1)経営に後手の名手はない。常に先手先手と打っていくことが経営の必勝法である。(2)経営者は常に考える事が仕事である。それも深く考えることである。(3)企業はどうしても勝たねばならぬ。同業者に、そして先進国の同業者に。(4)企業経営は利益の追求である。利益は企業繁栄のエネルギーである。(5)人・物・金ないないずくしの小企業が大きく伸びる秘密は、利益率と回転率にある。昭和53年(1978)度に私の決めた標語、経営戦略目標として社長室に掲げていた5ヶ条です。
好きな雑誌
プレジデント・週間ダイヤモンド・週間東洋経済・日経ビジネス・アエラ
好きな本
同郷に偉人あり・・・石橋信夫さんのこと。信念を貫くための・・・「信念の人」「頑固」「一徹」「独りよがり」「信念を貫くための猛烈な努力家」とあ言われた猛者がいる。大和ハウス工業創業者の石橋信夫さんである。石橋さんは、大正10年(1921)に奈良県吉野郡で生れた。私と同郷のよしみでもあり、創業経営者のひとりとして、また、大和ハウス工業をここまで育てあげられた功績を称えて紹介していこうと思う。創業者の一端が見え隠れする。石橋さんの経営は、昭和14年(1939)奈良県立吉野林業高校を卒業後、満州の営林局に勤務。終戦後は家業の吉野中央木材に勤務し、昭和30年(1955)に、兄の義一郎さん達と大和ハウス工業を創立。その後、常務、社長、会長を歴任された。周知のように、大和ハウス工業はプレハブ住宅の先駆け(我が国初という)で、リゾートホテルなどの観光事業にも着手し、海外にも進出している大企業である。石橋さんは、第ニ次大戦中に大ケガをされたが再起され、終戦後間もなくシベリアに抑留されて、死ぬか生きるかの瀬戸際も体験なされいる。この体験が、どんな困難にもくじけない闘志を掻き立てさせているかとおもえる。口癖ともとれる「人生も経営も戦いである。戦う以上、勝たねばならない」は、石橋さんの強い意志を物語っている。それから、とかく創業者に見られがちなのが「独断」型か、「冷静」型かであろうが、どちらかといえば、前者が創業者、後者が後継者であろうか。私自身、「せつかち」と言われるほど決断が早いほうである。かの マツモトキヨシ 先生が、千葉県松戸市長時代に「すぐやる課」を作ったというのが思い出される。亨年82歳で亡くなられた石橋さんの「信念が」がこの日本の「サムライ魂」を呼び起こし、次世代に継承されることを念じてやまない。
好きな映画
まだ未入力です
好きな人物
特に小学一年生入学時の深い印象・・・勉強と言えば学校、学校と言えば通称・二宮金次郎を思い出さずにはいられない人も多いであろう。昔は必ずといっていいほど学校の内外で金次郎(二宮尊徳)が柴を背にしょって、本を読んでいる姿の銅像にお目にかかったものだ。少し説明すると、二宮金次郎は、天明七年(1787)に足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に農家の長男として生れた。14歳で父を、16歳で母を亡くし、親戚に預けられた。やがて小田原藩の武家に奉公した折り、その藩の財政の立て直しをしたことが認められ、栃木方面の農政再興に寄与することとなる。彼の伝記を読むと次の様なこうが挙げられる。・小さい頃、草鞋(わらじ)を編むことで生計を助け、父のお酒もかった。・寝る間も惜しむほど本をよんだ。・荒地を耕し、お米を作った。・非常に倹約家だった。・早起きだった。・時に断食の修業を試みた。・人の模範となった。などが読み取れる。このことは後の宮沢賢治に受け継がれているような気がする。日本の教育の原型ともいえるし、象徴ともいえる。「一隅を照らす」という言葉があるが、これは自分の置かれている立場において精一杯努力して光り輝く事であり、周りの人たちをも明るく照らす事を意味する。二宮金次郎の様な先達から教えられる事が多いものだ。「勉強は永遠に」なのである。

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